先日「仏教にとって社会的活動とは何か」という記事を書きました。内容を簡単にまとめておくと、宗教にとって社会的な活動をすることは必然ではなく、社会的実践を行うかどうかやその方法は教義によって選択されるのであって、社会が宗教に求めるものとは必ずしも一致しない、ということでした。
それではいったい具体的にはどんな宗教のどんな立場がありうるのかについて、もう少し具体的に、わたしもその法灯を受け継ぐ一人であるところの真言密教の立場から考えてみようと思います。
「祈り」こそ密教の社会的活動である
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仏教における救いとは、永遠に続く生まれ変わりの連続(=輪廻)から抜け出すこと(=解脱)だ。生まれ変わって人生をやり直せるというなら、むしろ嬉しいことのように感じられるかもしれないが、この輪廻というのはヤクザの組織みたいなもので、一度入ってしまったら自分の都合で簡単に抜け出すというわけにはいかない。とても良い条件に生まれて最高の生を享受しているならまだしも、ひどい条件に生まれて一緒を苦しんで過ごさなければならないこともある。動物や虫、ひどいときには地獄で鬼にいたぶられることだってある。しかも、どんなに良い生であっても、結局は年を取り病にかかり最後には死という苦しみが待っていることに変わりはない。この生まれ変わりを何度も何度も、それこそ永遠にくり返さなければならないのだとしても、それを良いことと言えるだろうか。ブッダはこの永遠に続く生の連鎖を目の前にして、どうにかそこから解き放たれる方法を見つけ出そうと試みて、ついにはそれを発見した。容易には抜け出せないこの檻からの脱出方法を見いだしたから、ブッダとその教えは尊いのだ。
こうした輪廻に基づく生まれ変わりという考え方は、まがりなりにも仏教国として千年以上の歴史を持つ日本では誰もが耳にしたことがある一般的な概念だろう。世界最古の長編小説とも言われる『源氏物語』や妻夫木聡主演で映画化された三島由紀夫の『豊穣の海』など、生まれ変わりをテーマにした物語は今も昔も日本人にとってごく身近なものと言える。また現実生活においても葬儀や法事の場で「浄土に行けますように(つまり、この世界から浄土に生まれ変わりますように)」と祈ることは、なんら違和感を感じない行為であったであろう。
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