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	<title>Buddhistlife.net &#187; 仏教生活</title>
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		<title>密教における、社会的活動のための「実践」とは何か</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/102</link>
		<comments>http://buddhistlife.net/article/102#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 05 Feb 2010 10:43:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[エンゲージドブディズム]]></category>
		<category><![CDATA[全青協]]></category>
		<category><![CDATA[公益性]]></category>
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		<category><![CDATA[真言宗]]></category>
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先日「仏教にとって社会的活動とは何か」という記事を書きました。内容を簡単にまとめておくと、宗教にとって社会的な活動をすることは必然ではなく、社会的実践を行うかどうかやその方法は教義によって選択されるのであって、社会が [...]]]></description>
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<p>先日「仏教にとって社会的活動とは何か」という記事を書きました。内容を簡単にまとめておくと、宗教にとって社会的な活動をすることは必然ではなく、社会的実践を行うかどうかやその方法は教義によって選択されるのであって、社会が宗教に求めるものとは必ずしも一致しない、ということでした。</p>
<p>それではいったい具体的にはどんな宗教のどんな立場がありうるのかについて、もう少し具体的に、わたしもその法灯を受け継ぐ一人であるところの真言密教の立場から考えてみようと思います。</p>
<h3>「祈り」こそ密教の社会的活動である</h3>
<p><span id="more-102"></span></p>
<p>「宗教の社会的活動」について、最近密教の立場から発言された興味深い意見に２つ触れました。ひとつは『拝、ボーズ！！』の天野こうゆう師のご意見です。</p>
<blockquote><p>仏教というくくりで、空海さまの教えを説こうとすると既成概念のブッキョウに負けちゃってヤヤコシクなると私は思う。ならば「密教」を表に立てたいのだけ れど、こちらもイマイチ勘違いされやすい。秘密のなの？怪しいの？なんて言う者も出てくる。でも、仏教ひと括りはヨロシクナイ。</p>
<p>宗派を越えた若い僧侶が集うって何かやろうよ！的な発想は昔からあるのです。越えたからどうなるのか？なんて冷めたこと言おうものなら「アナタに情熱はないのか！」などと学生運動の演説みたいなのを聞かされたりします。同じ宗派でも若いのが集って何かしでかそうとしている時に口を挟むと「信心はないのか！」とどやされます。どちらもかなり面倒なのです。</p>
<p>で、結論は何がしたいのかと問うと表現はどうであれ「社会貢献」というオチになります。社会、世の中の為に我々に出来ることは何か！がテーマで徒党を組むのです。平和、環境、福祉、教育…とにかくお役に立ちたいと唾を飛ばします。</p>
<p>私はこういうのが苦手だから１人です。ただこれも器の問題…顕教とやるからヤヤコシイのです。密教的見地からやればいい。ジョジョとモトモトって話題でも 触れましたが、もっと大きな規模でしっかり祈っているのだから、めざすじゃなくて、もう包み込んじゃっている。わざわざ俗的にアピールせんでもよろしかろうって感覚。社会の一員という間隔も外して、拝む者としての責務。これを自覚して陰ながらやればよい。<br />
<a href="http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=160505&amp;log=20100130">法話な日記　■2010/01/30 (土) ボクも坊さん。</a></p></blockquote>
<p>もうひとつは、先日Twitterで中継もした「お寺と公益性」シンポジウムでの鈴木晋怜師（智山伝法院教授・全青協専門委員）のご意見です。シンポジウムのパネルディスカッションで議題の一つとして上げられていた「寺院の公益性をどう定義するか」に答えてのものです。<a href="http://buddhistlife.net/article/10">当日のTwitter中継</a>から引用してみます。</p>
<blockquote><p>鈴木: 全青協で研究員。智山派でも研究員で教団がいかに現代社会に関わるか研究している。寺院の住職としての立場から話したい。保守的な面を強調する。 #otera posted at <a href="http://twitter.com/yuzuki_m/status/4649773189">15:41:02</a><br />
鈴木: 寺院の公益性を議論する際には、それがないということが前提。開かれていなければ公益性を認められないのではという危惧・強迫観念がある。寺院住職として は「社会に開かれた活動をすること」がイコール公益性ではない。お寺なんだからお寺としての公益性に拘るべき。 #otera posted at <a href="http://twitter.com/yuzuki_m/status/4649812401">15:44:24</a><br />
鈴木: 一般法人とは違う。宗教的なもの(基本は毎日祈っているというこち)にもとずくべき。祈りは個人に収まるものではなく、檀家や地域や世界という自分を超えたところまでつながるものだから公益性を持っていると言える。 #otera posted at <a href="http://twitter.com/yuzuki_m/status/4649837869">15:46:32</a><br />
鈴木: なにか大きなもの(サムシンググレート)とのつながりを通して個人を超えられる。宗教的な実践としての祈りは個人と公共という両方のレベルで有効な行為 だ。まずは自己の祈りの真摯さが問われるべき。伽藍が締め切られていてもひたむきな祈りがあれば公益性は充分ある。 #otera posted at <a href="http://twitter.com/yuzuki_m/status/4649871001">15:49:20</a></p></blockquote>
<p>天野師は密教の立場から、鈴木師はあくまでも一般的な寺院という立場からの発言で、多少立場に違いはあるもののお二方とも真言宗の僧侶なので、基本的に同じ真言密教の教義に基づいて発言されていると考えて良いでしょう。お二人に共通するのは、密教の立場からは個人の利益を超えた祈りを捧げることこそが社会的な活動であるということです。つまり、社会的な活動をするとしても、たとえばホームレスなどに炊き出しをしたりせずとも、日々寺院のなかですべての人々が幸福になるようにとか祈りを捧げれば良いのだということですね。</p>
<p>国を守るための仏教として日本と中国で広まった密教にとって、この祈願による社会貢献という視点はとても大切です。たとえば中国に密教が広まる上でとても大切な役割を果たした不空三蔵が三代皇帝に寵愛を受けるようになったのも、国家的危機に発展した安史の乱を密教修法によって平定したことがきっかけです（参照：加藤大道［伝法院住職］「<a href="http://www.denpouin.com/reports/11.Chyuugokumikkyou_ni_okeru....html">中国密教における不空三蔵の意義</a>」）。また、真言宗の開祖・弘法大師空海は国の安定と発展を祈願する<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1">後七日御修法</a>［ごしちにちみしゅほう］を真言宗の修法の中でも最大のものと位置づけています。（空海ははやくから社会的な事業に取り組んでおり、灌漑事業や教育機関の創設といった社会的な活動もしていますが）。</p>
<h3>経典上の根拠はどこにあるか</h3>
<p>それでは密教ではなぜ「祈る」ことが「社会的な貢献」になるのでしょうか。真言宗の中心的な経典の一つ『金剛頂経』に一つの答えが書かれています。津田真一『和訳　金剛頂経』のいささか長く難しい解説文ですが、非常にカッコいいので引用してみます。</p>
<blockquote><p>歴史上のブッダ、釈迦牟尼如来となる釈迦族の王子シッダールタ（悉達太子［しっだたいし］）の密教的表現である一切義成就菩薩［いっさいぎじょうじゅぼさつ］（サルヴァールタシッディ）は、なすべき難行をなし了え、「菩提道場に坐して」、「無動三昧」に入り、いまや成道直前の状態にある。一個の人間である一切義成就菩薩＝悉達太子のこの状態に対応してその本所・色究竟天［しきくぎょうてん］より（しかも毘盧遮那［びるしゃな］を取り囲んで）降下してきた＜一切の如来たち＞は、一切義成就菩薩に対してその姿を示現し、いかにその様に難行を行じたとて＜一切如来の真実＞を知っていなければ成道しえない（逆に、それを知るなら、その様な難行を経ずとも、即身に成仏し得る）、と言って菩薩を驚覚する。驚覚されて菩薩は我にかえり、「では、どのようにすれば、どのような真実に通達し得るのですか」、と、その方法と真理の命題そのものを問う。それに対して＜一切の如来たち＞は、「通達せよ、＜自己の心を各各に観察する三昧＞によって、（すなわち）本性成就の（発菩提心）真言を好きな回数だけ誦することによって」と教えるのである。</p>
<p>……</p>
<p>『大日経』は、菩提とは何か、と問い、それに対して自ら「菩提とは如実に自心を知ることである」と答える。では「如実に自心を知る」とは？　『大日経』は、華厳の修道論を正統的に受けつぎ、それを「百千万億無量劫に福徳と智慧の無量の資糧を積集すること」である、とする。「福徳と智慧の資糧」とは、まさに上に述べた利他の直接的プラクシスのことに他ならない。『金剛頂経』は他のもの（シンボル）を以ってしてはそれに替え得ない筈のそのプラクシス（菩薩行）の無量劫に亘る継続を、＜オーム、われは（自）心の（源底）に通達せん＞という真言（非直接的なシンボルとしての…）をしかも、好きな回数だけ誦する、というシンボル操作で代替しようというのである。しかもさらに驚くべきことに『金剛頂経』の作者（それを人間とみる＜閉鎖系＞の立場からいうなら）は、自らそれが可能であるか否かを問題にし、且つ、真言というシンボルそれ自体の本性からしてその権能がある（prakrtisddha　本性成就）のだという根拠の意識からして、その代替は可能なのだ、と言ったのである。<br />
津田真一編・訳『和訳　金剛頂経』東京美術、1995年、224〜7頁</p></blockquote>
<p>一言で述べれば、密教の理論においては「象徴的な操作を行うことで実際の行動を代替できる」と述べられています。つまり、密教教義上では世界平和や社会の安定を祈願する修法を行うことと、それを実現するために実際になんらかの行動を起こすことはイコールなのです。密教のこのような立場が社会的に受け入れられるものなのか、また信仰上実践可能なものなのか、など別の問題はあるものの、先にあげた天野こうゆう師、鈴木晋怜師の立場は理論的にも裏付けられていると言えるのではないでしょうか。</p>
<p>信仰に基づいて行動をするときには、少なくともこうした教義上の裏付けが必要です。社会的活動をすることはとても立派なことだと思いますが、教義的な裏付けと信仰上の意義を確認しないままでは方向性がブレたりや活動そのものが自己目的化して行ってしまうことも考えられます。「本来のお寺は○○だったから、それを今に取り戻すのだ」というような曖昧な理由付けではなく、きっちりと教義的な検証を行うことも必要になっていくのではないでしょうか。</p>

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		<title>仏教徒的に正しいお酒の断り方</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/98</link>
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		<pubDate>Thu, 28 Jan 2010 09:35:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[twitter]]></category>
		<category><![CDATA[不飲酒戒]]></category>
		<category><![CDATA[戒律]]></category>

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先日、Twitterで仏教的に正しいお酒の断り方を尋ねたところ、様々なお答えをいただきました。その中にこれからお酒を断るならこれだな、と思った名回答がありましたので、記録の意味もかねてエントリーにしておきます。
その [...]]]></description>
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<p>先日、Twitterで仏教的に正しいお酒の断り方を尋ねたところ、様々なお答えをいただきました。その中にこれからお酒を断るならこれだな、と思った名回答がありましたので、記録の意味もかねてエントリーにしておきます。</p>
<p>その答えとはこちら。</p>
<blockquote><p>「医者（医王＝釈尊）に止められている ので。」嘘にはなりませんw RT @yuzuki_m 【緩募】お酒の上手な断り方。<br />
from naagita <a href="http://twitter.com/naagita/status/7783644673"> 7:48 PM Jan 15th   from web</a></p></blockquote>
<p>教えてくださったのは、日本テーラワーダ仏教協会の<a href="http://twitter.com/naagita">佐藤哲朗</a>さん。さすがに仏教徒的に押さえておきたいツボを外さない名答だと思います。ぜひ今後は使っていきたいと思いましたので、ここから少し仏教徒的に押さえておきたいツボをいくつか考えてみました。</p>
<p><span id="more-98"></span></p>
<h3>ポイント1：ウソはつかない。</h3>
<p>仏教徒として戒律を守りたいと思って飲酒を断っているわけですから、たとえ同じ病気路線で断るにしても「肝臓が悪いから」などの具体的な理由を挙げてしまうと、ウソをつくことになってしまいます。それじゃあ「医者」というのは良いのかという話になるかと思いますが、仏教的には人の苦しみを癒す医者のなかでももっとも優れているのが医王であるところのお釈迦様、という位置づけになるのでまったく問題はありません。</p>
<h3>ポイント2：飲みニュケーションの土俵に乗らずともすむ。</h3>
<p>また、「車で来ているから」とか「今日は予定がある」のように問題を先送りする断り方ですと、「じゃあ代行で帰ればいいじゃないか」とか「次は飲めよ」とか、果ては「俺の酒が飲めないのか」的飲みニュケーションを迫る人もいたりして、どうにも断る理由として弱いものがあります。相手に医療措置上理由と言う誤解を与えてしまうことになるとはいえ、体に悪いとなればさすがに罪悪感も手伝って無理やり勧める人も少なくなるのが良いところです。</p>
<h3>ポイント3：信仰上の理由であるところをそれとなく伝える。</h3>
<p>また、異なる信仰を持っている方にも、できれば自分が信念に基づいて行動しているところを見せておきたいところ。かといってそれを全面的に押し出すのも無粋になってしまうので、お医者さんというオブラートに包みつつそれとなく「お釈迦様＝医王」と知っている人には伝わる可能性もあるという非常に紳士的かつそのあたりがわかっていればさらに深い話に持っていくことも可能です。</p>
<p>と、簡単に仏教徒的に正しいお酒の断り方を考えてみました。いかがでしょうか。どうしても断りにくい場合には、このような答え方をされてみてはいかがでしょうか。</p>

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		<title>仏教にとって社会的活動とは何か</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/94</link>
		<comments>http://buddhistlife.net/article/94#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 27 Jan 2010 08:31:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[がんばれ仏教]]></category>
		<category><![CDATA[エンゲージドブディズム]]></category>
		<category><![CDATA[タイ仏教]]></category>
		<category><![CDATA[プッタタート比丘]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[葬式仏教]]></category>

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<p>机の上に溜まっていた資料などを整理していたら仏教タイムスの新年号を発見しました。中外日報とならぶ二大仏教新聞のひとつです。とりいそぎ片付けを中断して読んだところ、特集として2ページにわたって大々的に掲載されていた、自殺対策や貧困問題といった社会的活動に携わる若手僧侶の座談会がなかなか興味深いものでした。宗教と社会的活動の関係はこのところ気になっていたテーマでもありますので、この記事をとっかかりに少し宗教にとって社会的な活動にどんな意味があるのか考えてみました。</p>
<h3>寺院と社会との距離感</h3>
<p>座談会に出席していたのは、浅草で生活困窮者に毎月二回炊き出しを行っている「ひとさじの会」、手紙による自殺対策活動に取り組む「自殺対策に取り組む僧侶の会」、そして巣鴨で高齢者のつながり作りのためお話の会を開催する「法話研鑽会」の四名の僧侶です。具体的な活動の内容とどんな反応があったのか、またなぜこうした活動を始めたを中心に話されていたのですが、実際の活動をしたなかで感じたという以下のようなお寺と社会の距離感は私自身も日ごろ感じているものでもありました。</p>
<p><span id="more-94"></span></p>
<blockquote><p>『一般の方々の僧侶への視線は、「葬儀や法事をやっているだけ」というものが非常に多くて、「相談なんか持ちかけてはいけないのではないか」と思っている方が大半のほうに思います。実際にご自坊にいらっしゃるご住職は、「いつでも相談を受ける」というスタンスかもしれませんが、お寺が”安心して悩める相談窓口だ”という認識は、すでに社会では失われているのではないでしょうか』<br />
「青年僧侶新春座談会　現世の苦に立ち上がる」『仏教タイムス』2010年1月1日、2381号、2−3頁。</p></blockquote>
<p>僧侶であることを明らかにしてネットにいるとたまに仏教に対する厳しい意見をぶつけられることがあるのですが、なかでもよく言われるのがこうした葬式仏教批判です。たとえば「僧侶の本当の仕事は社会貢献なのに葬儀や法事ばかりしている」とか。仏教の本分から外れてあまりに葬儀や法事ばかりしているという点では当たっている点もあると思いますが、それじゃあ何をすれば良いのかという部分でいささか見当違いの方向性に答えを見出しがちかと。ここで言われているようなお寺と社会との距離感が大きな原因でしょうが、普段関わっていないもののあるべき姿とかなにを根拠に答えを出すのかと。要望を伝えることと、相手のあるべき姿を考えることは別なわけですね。</p>
<h3>宗教にとって社会的活動は必然ではない</h3>
<p>そもそも宗教一般にとって、とくに仏教においても、社会的な活動を行うことは必ずしも選択されるべきこととは限りません。あくまで優先されるのは教義ですし、慈善活動をするために信仰をしているわけではないのです。信仰する教義に基づいて、その教義が目指すところを成し遂げるべく実践の方法も選択されるわけです。だから、炊き出しや悩み相談といった社会的な実践に携わることを選ぶ宗教もあれば、それを選ばない宗教もあるわけです。</p>
<p>仏教でも、もともと目指していたのは社会を捨て悟りのみを目指した修行生活に専心することでした。たとえばタイ仏教あり方を解説した『タイ仏教入門』では、仏教の僧侶が修行のためにつくる集団「サンガ」の目的は、あらゆる社会的なものごとから隔絶された環境を修行者に与えるためと書かれています。</p>
<blockquote><p>安定的生活の保証という、修行のための基礎的条件についで、サンガがその成因の利益のために確保するところのものは、世俗界から絶縁された超俗的環境である。サンガのなかに身をおく時、人は修行のさまたげとなるいっさいの人間的なきずなを絶ち切って、ひとり、自己とのみ対決することが可能となる。この意味において、サンガはきびしい外気をさえぎって冬季にも暖地の草木を開花結実させる「温室」に似ている。サンガの人は、俗界の存在を顧慮することなく、修行に全力を傾注することができる。そこは、世人の幸福と無縁な徹底した個人主義者がむしろ賞賛される社会である。俗界の事象に心奪われるものがさげすみを受ける世界である。われひとり浄しとする者がかえって尊敬を受ける稀有の場所である。<br />
石井米雄『タイ仏教入門』めこん、1991年、86頁。</p></blockquote>
<p>仏教では、苦しみが生まれるのはこの世界のあらゆるものは常に変化して永遠不変のものは何一つなににも関わらず、そのことに気付かず自分の思い通りにしたいと物事にとらわれる心からと考えます。だから、苦しみの原因となっている執着する心を解体していくために、世俗的な物事から切り離された環境に身をおくべきだという話になってくるわけですね。ですからサンガでは、修行の妨げになる俗世間に関わるすべてから距離をおいて、自分の修行だけに専念することが教義として正しいことなわけです。</p>
<h3>仏教の教義における社会活動の意味</h3>
<p>というわけで、宗教者が社会的な活動を行うならば教義的な裏付けが欠かせないわけですが、どうも社会からはもちろん宗教者の側からもこの点についてあまり明確な裏付けを行っているケースは少ないように思います。今回の記事でこうした点に触れられていたところを抜き出してみれば以下のような感じです。</p>
<blockquote><p>「貧困の現場には、牧師さんが圧倒的に多かった。救いを求めたときに牧師さんしかいないというこは、貧困の現場には宗教の選択肢がないということになります」<br />
「本来お寺は、交流の場所であり、炊き出しとか悩み相談、行政窓口の紹介も昔は全部やっていたんですよね」<br />
「青年僧侶新春座談会　現世の苦に立ち上がる」『仏教タイムス』同上</p></blockquote>
<p>宗教の選択肢を提供するというのは援助を理由に信仰を求められることがなくなるようにするという意味でも重要だと思うのですが、二つ目の「本来のお寺は云々」というのは最近お寺で毛色の変わった活動をするときに真っ先に上げられる理由付けではあるものの、伝統的なお寺が仏教本来のあり方とどの程度距離があったのかについて検証しないままではいささか理由付けとしては弱いように感じます。そもそも教義的にどうなのかという話が記事ではいっさい無いというところも含めて、僧侶自身も明確な根拠に基づいて実践することの重要性をあまり意識していないのではないでしょうか。</p>
<p>さきほど世俗から隔絶された環境で修行に専念することが大切としたタイ仏教では近年社会的な活動に携わることの重要性を説く仏教（エンゲージドブディズムと言います）が広まっているのですが、非常に保守的なタイ仏教界にあって180度異なる方向性を打ち出すにあたっては教義的にも明確な位置づけがされているようです。名古屋大学准教授で日本仏教の福祉活動ついて研究もしているランジャナ・ムコパディヤーヤは、エンゲージドブディズムの代表的指導者でありタイ仏教の革新運動に大きな影響を与えたプッタタート比丘の教義的な裏付けについて以下のように解説しています。</p>
<blockquote><p>プッタタートは資本主義とそれに結びついた自由主義的民主主義も、またマルクス主義・共産主義も、人間の物質的利益を心の開発に優先させることによって、民衆の自己統治、自己開発を妨げてしまうとして退け、仏法に基づいた共同型の「社会主義的民主主義」体制を提案した。プッタタートがいう仏法的社会主義とは、資本主義や共産主義が優先する特定の人々の利害ではなく、仏法に基づいて社会の利益を守る体制であり、共同体全体の反映と平和の実践を追求するというものである。この仏教共同体の理念は「縁起」、「報恩」「中道」などの教えに基づくものである。例えば、プッタタートは人間は自然や社会から様々な恩を受けながら生かされているので、それに報いることは人々の社会的義務であり、社会への恩返しすることで仏教が目指す無我に達することができるとしている。このように、プッタタートの仏教解釈においては人々の社会的義務・社会貢献活動に宗教的意味合いがつけられたのである。<br />
ランジャナ・ムコパディヤーヤ「社会参加仏教（エンゲイジド・ブディズム）ーアジア仏教徒の社会的行動そして日本仏教の可能性）『現代宗教2009』秋山書店、2009年、80−1頁。</p></blockquote>
<p>仏法的社会主義というのは仏教がほど国教となっているタイならではという点もあると思いますが、このように教義的な裏付けがなされてはじめてそれが正しいいかどうかについても議論ができるようになります。寺院と社会の間の関係はどのような形としてあるべきかを考える上でも、仏教の教義を社会的に位置づけていくことは大切なことです。</p>
<p>近年『がんばれ仏教』などのように外部からの「お寺を開くべき」という声に答えようとしてきた仏教界ですが、今後は教義に立ち返ってお寺のあり方やその実践方法についても検討し理論化して行くべきではないかと思うわけです。</p>
<h3>追記（2/9）</h3>
<p>その後、教義的にいかに裏付けするかという問題は戦前から解決されないままだというご指摘をいただきました。<a href="http://twitter.com/naagita">佐藤哲朗さん</a>のツイートを引用しておきます。</p>
<blockquote><p>木村泰賢「総じて仏教運動に欠けている大事な要素がある。即ちそれは思想的立脚地の確定し居らぬことである。換言すれば仏教運動と称しながら実は仏教思想をいかように体系づけ、之をいかように現代的に実現するかの根本方策を欠いて、（続く） <a rel="bookmark" href="http://twitter.com/naagita/status/8281040036"> 11:35 PM Jan 27th </a> from web</p>
<p>(承前）ただ漫然と仏教主義とか仏陀の精神に基づいてとかいうが如き表幟を以てすることである。」（『祖国　PATRIA ET SCIENTIA』創刊號　學苑社　S3.10.1）これ、戦前からの宿題です。シャンティ（旧SVA）のような実績から汲み取る必要も。 <a rel="bookmark" href="http://twitter.com/naagita/status/8281265564"> 11:41 PM Jan 27th </a> from web</p>
<p>タイでは社会参画仏教の理論化が国策の後押しで進んだし、スリランカやビルマでは反植民地運動の中で鍛えられました。日本は明治廃仏後の失地回復が優先で同時に色んな課題に対応しなければならないしんどさはあったと思います。拙著もご参照下さいw <a rel="bookmark" href="http://twitter.com/naagita/status/8304435795"> 10:54 AM Jan 28th </a> from <a rel="nofollow" href="http://www.atebits.com/">Tweetie</a> <a href="http://twitter.com/yuzuki_m/status/8303331594">in reply to yuzuki_m</a></p></blockquote>
<p>このあたりの歴史的な経緯を把握するためにも、佐藤さんの『大アジア思想活劇』を読んでおいたほうが良さそうです。積ん読したままになってるので、はやく読もう（すみません…）。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>人の信仰を笑うな　『仏陀再誕』について</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/49</link>
		<comments>http://buddhistlife.net/article/49#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 18 Nov 2009 11:50:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[仏陀再誕]]></category>
		<category><![CDATA[大川隆法]]></category>
		<category><![CDATA[幸福の科学]]></category>

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先日幸福の科学の映画『仏陀再誕』を観てきた。普段であれば上映館数も少なく幸福の科学信者だけのものとして一般人の話題になることもなくひっそりと公開されるのだろうが、どうも今回は様子が違う。地上波テレビでのCMを流したり [...]]]></description>
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<p>先日幸福の科学の映画『仏陀再誕』を観てきた。普段であれば上映館数も少なく幸福の科学信者だけのものとして一般人の話題になることもなくひっそりと公開されるのだろうが、どうも今回は様子が違う。地上波テレビでのCMを流したり宣伝用DVDを秋葉原で配るなど、宣伝にとても力を入れている。上映規模にしても、この夏最大の話題作の一つだったエヴァ破を大きく上回る上映規模だったようで、この映画にかける教団の本気度が感じられる。さすが、衆院選の供託金に数十億を費やそうとも何でもないという宗教界のトヨタ、だろうか。</p>
<p>さらにこのところ幸福の科学自体に注目が集まる状況にもあって、でもずいぶんこの映画に興味を持っている人も多い。注目を浴びることになった最大の理由は、幸福実現党を設立し多くの候補者を送り込みながら迷走を重ねたあげく一人の当選者も出せなかった夏の総選挙だろう。全国すべての選挙区に候補者を立て大川隆法自らも出馬し政見放送で大演説をするなど、絶大なインパクトを残しながら当選者ゼロという驚きの結果を残している。</p>
<p>映画自体としても、ブッダの再誕という仏教の根本をまったく理解していないかのようなストーリーが各方面でそれなりに議論を巻き起こしている。幸福の科学の信者でなくてもネタとしてもわざわざ見に行った人がいるようで、少し検索すればこの映画にツッコミを入れるブログがいくらでも見つかるだろう。</p>
<p><span id="more-49"></span></p>
<p>話題のストーリーは、女子高生小夜子が知り合いの自殺をきっかけに霊的な世界に目覚め、ブッダの生まれ変わりである空野太陽という宗教教団TSI（＝幸福の科学）の指導者の導きのもと、自分がブッダの生まれ変わりであると騙り救いと引き換えに自らへの絶対的な服従を要求する荒井東作を打ち破るというもの。映画で描かれる幸福の科学の世界観や信仰について考えながらであれば、信者でなくとも最後まで楽しんで観られるだろう。権力欲にまみれたニセブッダの名前が「荒井東作」だったり、最終的に空野と対決する悪魔がなぜか総髪で青い衣を着た僧侶として描かれるなど（モデルは真言宗中興の祖・覚鑁がモデルという説もある）、幸福の科学が何を敵として捉えているかも垣間見えた点も興味深かった。</p>
<p>仏教徒としては、ブッダに関する描写に受け入れがたい点が多かった。例えば、空野として生まれ変わったブッダが「諸々の比丘、比丘尼たちよ」と人々に呼びかけるシーン。弟子たちと将来仏国土を建設するという約束を果ために復活したのだと語りかけるわけだが、仏教徒にとって一番大切な存在がこのような形でまったく異なる文脈の中に取り込まれ、自説を補強する素材として利用されることは実に堪え難い。正直言って、このシーンには強い嫌悪感を感じた。空野が荒井を批判する「自分の権力欲を満足せんがために、小さな知でブッダの教えをねじ曲げるな」というセリフは、大川隆法が自分自身に向けて発するべき言葉だろう。</p>
<p>しかし、こうした映画の教義的な是非を巡る議論を離れたところで、大いに共感する点もある。それは大川隆法が語る荒唐無稽な世界観を多くの人々が信じた原因だろう、人から気持ちを理解されない疎外感と自分ではどうしようもないほど大きな苦しみだ。映画の主人公・小夜子の境遇に、多くの幸福の科学信者が社会に対して苦しんでいる自分を救ってくれなかった社会に対する恨み言に満ちた世界観を見てとることができる。</p>
<h3>孤立して苦しむ人々</h3>
<p>『仏陀再誕』主人公・小夜子は（おそらく）仏教系高校に通う女子高生。父親が医者で家庭も裕福だし、ジャーナリスト志望で熱心に活動する新聞部では評価も高く、友達にも羨まれるカッコイイ大学生の彼氏もいる。なんの不満もない充実した人生を送っているようだが、物語が進むにつれて実はそうでないことがわかってくる。</p>
<p>同級生たちは彼氏がいることを実は嫉んでいるし、新聞部の仲間も一緒に行く約束をしたのに彼氏とのデートを優先して小夜子にたった一人で荒井東作の怪しい宗教団体に取材に行かせたりする。表面的に友達関係づきあいをしているだけなのだ。また家族も小夜子が思い切って打ち明けたことを、バカバカしいと頭ごなしに否定して真剣に聴こうとはしない。やっとのことで射止めた憧れの彼氏も、彼女に隠し事（宗教活動）をしていて本心を打ち明けてはくれない。</p>
<p>小夜子は、周囲の人間だれともつながりあうことができないのだ。このディスコミュニケーションに苦しむ小夜子というキャラクターは、幸福の科学の信者にとってとても共感しやすいものだろう。どちらも周囲の人々との関係性が断ち切られていることに苦しんでいるのだ。</p>
<h3>差し伸べられることのない手</h3>
<p>しかも、そのような苦しみにある小夜子を社会は蔑みあざ笑いのけ者にしてきた。劇中で悪役として描かれるキャラクターに、弱い立場にある自分たちがいかに不当に扱われてきたと思っているかが明らかだ。</p>
<p>一人は小夜子があこがれだったという新聞記者だ。彼は幸福の科学の霊的な世界観を非科学的だと否定するインテリとして描かれており、小夜子が見いだしつつある霊的な世界をとるにたらないつまらないものとして否定する。そんなものは弱いものが自分の弱さを覆い隠すために作り出した戯言にすぎないと。</p>
<p>もう一人は苦しみからの開放と引き換えに自分への絶対服従を強要する荒井東作だ。たとえ霊的な世界観を認めていても、それが救いにつながるとは限らない。注意して「正しい」指導者を選ばなければ、教祖の欲求を満足させるための材料として使われてしまう危険性があるのだ。</p>
<p>正しいかどうかは別として、小夜子の置かれているこうした境遇が幸福の科学信仰を選んだ人にとって、共感のできる世界観なのだろう。苦しさを訴えても社会的にも宗教的にも手をさしのべてくれる存在はどこにもいないと、彼らは絶望しているのだ。</p>
<h3>「正しい教義」が与える痛み</h3>
<p>幸福の科学を荒唐無稽な物語として批判する人は多いが、教義の論理的な矛盾を指摘し非難することでは彼らの持っている苦しみをさらに深めることにしかならない。彼らはすでに充分否定され無視されてきているのだ。幸福の科学の教義がどれほど奇怪で根拠に欠けるものか証明しても彼らには届かない。人間は痛みを感じればそれを誤魔化すことを考える生き物だ。否定されれればされるほど、悪魔の陰謀など新たに理屈をねつ造して教義の論理に回収し、現実から目をそらすだけだろう（仏陀再誕が教義的に不可能と気付き、弥勒仏が替わりの存在として浮上しているのだとか）。</p>
<p>たしかに幸福の科学の教義において語られることは信じがたいことばかりだ。教義的な側面を追求したくなる気持ちもわかる。イエスもブッダもあらゆる偉人はすべて九次元宇宙の最高霊であるエル・カンターレの化身だというのだから、宗教としての節度も欠くし物語としても陳腐だ。傍から見れば誇大妄想としか言い様がない。しかし、なぜ彼らはこのような物語に縋らなければならなかったのか。それこそが最も重要な点だ。</p>
<p>それは彼らが社会的には解消しえない大きな苦しみを抱えながらも、誰にも救ってもらうことのできなかったからだろう。結局、そんな状況にあっても手を差し伸べてくれたのは、幸福の科学と大川隆法しかいなかったのだ。彼らの抱える苦しみとその原因を顧みることもせずに、教義的な誤りを批判したりカルトといってあざ笑うことのどちらも彼らの苦しみを無視し、踏みにじることに過ぎない。</p>
<h3>苦しみに共感を</h3>
<p>教義が正しければ救われるのか？　すでに正しい教義があるなら、なぜいまだに彼らは救われないのか。正しい論理だけで人は救われない。誰からも手を差し伸べられることがない人生を送ってきた人に、苦しむ人を救うためにあらゆる言葉を尽くし何かを与えようとする人がいれば、信じようとするのは自然なことではないだろうか。</p>
<p>『仏陀再誕』の本質的な意味をとらえようとするならば、ブッダどうこうのレトリックではなく、そこで発されているメッセージを見極めなければならない。大川隆法が発するのは、社会から嘲笑われ蔑ろにされてきた人に向かって「それでもあなたは尊い存在なのだ。私はあなたを幸福に導くために、生涯を賭していく」というものだ。</p>
<p>このメッセージに、正しい教義をぶつけたところでなんの意味があるだろうか。正しさに心を切り刻まれれば、心をさらに固く閉じるだけだ。彼らも私たちと少しも変わらない苦しみを抱えて、精いっぱい生きているのだ。彼らになにか伝えようとするならば、まず彼らの出発点である苦しみに共感しなければ始まらない。</p>
<p>だから私は言いたい。信じるものは違っても、なにかに苦しんでいることは同じだ。苦しみを抱えるものとして、あなたの苦しみを教えて欲しいのだと。</p>

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		</item>
		<item>
		<title>死後のイメージに関するTwitterアンケートまとめ</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/9</link>
		<comments>http://buddhistlife.net/article/9#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 02 Oct 2009 13:12:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[死後観]]></category>
		<category><![CDATA[輪廻転生]]></category>

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		<description><![CDATA[

Twitterで仏教の浄土や輪廻に関する議論をしていたところ、現代人が死後についてどのようなイメージを持っているのか疑問を感じ、Twitterでアンケートを行ってみました。
「【質問】死んだらどうなると思ってますか？ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<div class="topsy_widget_data topsy_theme_light-green" style="float: right;margin-left: 0.75em; background: url(data:,%7B%20%22url%22%3A%20%22http%253A%252F%252Fbuddhistlife.net%252Farticle%252F9%22%2C%20%22style%22%3A%20%22big%22%2C%20%22title%22%3A%20%22%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8BTwitter%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%22%20%7D);"></div>
<p>Twitterで仏教の浄土や輪廻に関する議論をしていたところ、現代人が死後についてどのようなイメージを持っているのか疑問を感じ、Twitterでアンケートを行ってみました。</p>
<p>「【質問】死んだらどうなると思ってますか？　生まれ変わり？　消滅？　仏になる？　先祖になる？　死後の世界に行く？　リプライで教えてください。集計してあとで報告します。なるべく詳しく教えていただけると嬉しいです！【急募】」と質問したところ、およそ１時間半で31人の方にお答えいただくことができました。ありがとうございます。<br />
さっそくいただいたお答えを集計したところ、以下のような順位となりました。</p>
<ul>
<li>1位：無になる（16票／51.6％）</li>
<li>2位：生まれ変わる（9票／29％）</li>
<li>3位：仏になる（2票／6.5％）</li>
<li>4位：幽霊になる、天国にいく、信じている通りになる、わからない（各1票／3.2％）</li>
<li>合計：31票中</li>
</ul>
<p>やはりダントツで多く16人（51.6％）が選ばれたのが「無になる」、「消滅する」という答えでした。やはり輪廻や生まれ変わりという世界観は受け入れがたい方が多いようで、死んだらきれいに消え去りたいと答える方が多かったです。肉体を機械的なものとして表現される方もいらっしゃって、機能が停止すればあとにはなにも残らないというイメージを持ってられるようです。</p>
<p>2位が「生まれ変わる」という答え。約3割の方がなんらかの形で生まれ変わると考えてられようです。仏教的に生前の行為の善し悪しによって新しい命に生まれ変わるという考えもあれば、原子レベルで別のかたちに生まれ変わりという考え方も。<br />
3位はなんらかの形で仏になるというもの。仏になるにも色々ルートは考えられますが、お二人ともお坊さんだけにご自身の信仰がはっきりしているようです。4位以下はそれぞれ1票ずつで「幽霊になる」、「天国にいく」、「信じている通りになる」、「わからない」という答えが並びました。</p>
<p>こうしてまとめてみると、質問前にイメージしていたように「無になる」と答える方が多く過半数を占めました。日本では伝統的に人は死後「仏」や「ご先祖様」になるとされて来ましたが、こうした死後観はかなり有効性を失ってきているようです。仏教に宗教にシンパシーを感じている方でも必ずしも仏教的な死生観を信じているわけではないようでし、「ご先祖様になる」という答えは皆無で、家制度に基づく死後観が有効性を失っている現状をあらためて感じさせました。</p>
<p>また死んだら肉体的な機能が停止するといった人間を機械的に理解されている方や原子レベルで新しい形に生まれ変わるという考え方をされる方もいらしゃって、「死」という人間の理性を超えるものとして捉えられてきた概念も、理性的に把握可能なものとして捉えている傾向も見受けられるようです。あくまで「無」や「原子レベルで生まれ変わる」といった現実的な答えが多く、超越的な存在になることや、いわゆる霊魂的なものになるという答えはほとんどありませんでした。</p>
<p>短時間でしたが、大変多くの方にお答えいただきまして、誠にありがとうございました。以下、それぞれ投票してくださった際のコメントを、内容はなるべく変えず個人の特定がしにくようにまとめました。合わせて参考になさってください。</p>
<p><span id="more-9"></span></p>
<blockquote><p><strong>1位：無になる（16票／51.6％）</strong>：「禅宗系の大学に通っていたこともあり消滅したい」、「思考が停止して無になる」、「輪廻や再生は信じない。電源が切れるようにただ消えたらいいな」、「意識や人格は連続しないので霊魂があっても無意味」「根拠はないが、消滅して無になると思う」「火葬場のインパクトが大きかったので。自分の家系に生まれ変わりたい気持ちもある」、「土に還る。精神は生まれ変わるかも」、「ビッグバンで宇宙が再生したら今とまったく同じ自分が現れるかも。人間が虫や動物に生まれ変わるとは思わない。肉的の構造上人間の思考を再現不可能だから」、「無になるが、思念が残る人もいる」、「消滅する。見てみたいので１割くらいは極楽浄土を信じる気持ちもある。」、「消滅して親族の記憶としてのみ残る」、「消滅して、生前の記憶や行為の影響が関係者に残り影響し続ける」、「考えたことがないのが消滅するのでは。輪廻はいや」、「機能が停止してただ消える。輪廻や生まれ変わりはない」、「塵から生まれ塵に帰る。意識は地球や宇宙と一体化する」<br />
<strong>2位：生まれ変わる（9票／29％）</strong>：「輪廻転生する」、「原子レベルで再利用されて記憶だけが関係者に受け継がれる」、「死後の世界に行って生前の行為の善し悪しに従って生まれ変わる」、「天命を果たせば仏のような存在になり、果たせなければ再度生まれ変わって天命を果たす」、「記憶は残らないが生命エネルギーは輪廻する」、「生まれ変わっていつかは成仏する。死生観も現世を価値あるものにするために生かしたい」、「江原は信じないが生まれ変わる」「修行中なので生まれ変わる。修行が終われば輪廻も終わる」、「記憶のなかに生きることも生まれ変わり」<br />
<strong>3位：仏になる（2票／6.5％）</strong><br />
<strong>4位：幽霊になる（各1票／3.2％）</strong>：「あの世はなくて、ただこの世を漂う」<br />
<strong>4位：天国にいく（各1票／3.2％）</strong>：「無になると思っていたが、著名人の死が多かったので」<br />
<strong>4位：信じている通りになる（各1票／3.2％）</strong>：「無になると思う人は溶けて消え、死後の世界を信じる人はそこにいく。個人的には死後の世界があると思う」<br />
<strong>4位：わからない（各1票／3.2％）</strong>：「誰にも証明できない、宗教はなぐさめにすぎない」</p></blockquote>

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		</item>
		<item>
		<title>「明日世界が滅亡するとしたら何をしますか？」</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/8</link>
		<comments>http://buddhistlife.net/article/8#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 18 Sep 2009 15:27:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[Steve Jobs]]></category>
		<category><![CDATA[死]]></category>

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		<description><![CDATA[

「明日世界が滅亡するとしたら何をしますか？」
会社の採用試験をテーマにした『ソクラテスの人事』というテレビ番組で取り上げられていたこの質問は、講談社が実際に採用試験で出したものだそうだ。番組では講談社の人事部二名に対 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<div class="topsy_widget_data topsy_theme_light-green" style="float: right;margin-left: 0.75em; background: url(data:,%7B%20%22url%22%3A%20%22http%253A%252F%252Fbuddhistlife.net%252Farticle%252F8%22%2C%20%22style%22%3A%20%22big%22%2C%20%22title%22%3A%20%22%E3%80%8C%E6%98%8E%E6%97%A5%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%8C%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E4%BD%95%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8D%22%20%7D);"></div>
<p>「明日世界が滅亡するとしたら何をしますか？」</p>
<p>会社の採用試験をテーマにした『ソクラテスの人事』というテレビ番組で取り上げられていたこの質問は、講談社が実際に採用試験で出したものだそうだ。番組では講談社の人事部二名に対して、十人ほどの芸能人たちがそれぞれ趣向を凝らしてこの質問に答えていた。好きな人に告白して成功すればその日のうちに結婚式を挙げるとはるな愛が答えれば、森永卓郎は人類の文化を後世に残すため種子島宇宙センターのロケットに載せて宇宙に発射すると答えた。自分が最も大切にしているものが何かに関わる質問だけに、誰でも何をすべきか真剣に考えざるを得ない問いだろう。</p>
<p>結局講談社の二人は森永卓郎と、ただそれまでのことの感謝の祈りを捧げると答えた江守徹を採用すると答えたあとで、「なにもしない」と答えてかぶってしまった二人を「同じ考えをする人間は必要ない」と切り捨てていた。しかし、この「なにもしない」という答えこそが、この質問の本質を捉えた答えではないかと思う。</p>
<p>なぜなら、この問いは私たちが生きている限り常に突きつけられている問いに他ならないからだ。私たちは今日と同じように、明日を何ごともなく迎えることができると思い込んでいる。しかし、夜眠りについて朝何事もなく目を覚ますという保証も、毎日渡る信号を今回も無事に渡ることができるという保証もない。明日を無事迎えられるかどうかなんて誰にもわからないのだ。『タッチ』の上杉達也は人生最後の日となった地区予選決勝戦の朝、南とともに甲子園に立つ以外にどんな未来を想像することができただろうか。私たちは現実に明日にでも、いや今日にでも、私自身の「世界が滅亡する瞬間」を迎えてしまう可能性とともに生きているのだ。</p>
<p>アップルのCEOスティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で行った歴史に残る名スピーチで、17歳のときに出会ってとても感銘を受けた死に関する言葉を紹介している。「毎日これが人生最後の日だと思って生きなさい。いつか必ずその通りになる日がくるから」。そう。どんなに人間にも平等に最後の時はいつか必ずやってくる。私たちが何気なくする毎日の行動も、いつか「明日世界が滅亡するとして」選んだ最後の行動になる日が来るのだ。</p>
<p>「明日世界が滅亡するとしたら何をしますか？」。今日一日のあなたの行動こそが、この問いへの本当の答えだ。</p>

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		<title>輪廻しない世界の仏教</title>
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		<pubDate>Mon, 14 Sep 2009 13:17:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[ブッダ]]></category>
		<category><![CDATA[津田真一]]></category>
		<category><![CDATA[涅槃]]></category>
		<category><![CDATA[解脱]]></category>
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<p>　仏教における救いとは、永遠に続く生まれ変わりの連続（＝輪廻）から抜け出すこと（＝解脱）だ。生まれ変わって人生をやり直せるというなら、むしろ嬉しいことのように感じられるかもしれないが、この輪廻というのはヤクザの組織みたいなもので、一度入ってしまったら自分の都合で簡単に抜け出すというわけにはいかない。とても良い条件に生まれて最高の生を享受しているならまだしも、ひどい条件に生まれて一緒を苦しんで過ごさなければならないこともある。動物や虫、ひどいときには地獄で鬼にいたぶられることだってある。しかも、どんなに良い生であっても、結局は年を取り病にかかり最後には死という苦しみが待っていることに変わりはない。この生まれ変わりを何度も何度も、それこそ永遠にくり返さなければならないのだとしても、それを良いことと言えるだろうか。ブッダはこの永遠に続く生の連鎖を目の前にして、どうにかそこから解き放たれる方法を見つけ出そうと試みて、ついにはそれを発見した。容易には抜け出せないこの檻からの脱出方法を見いだしたから、ブッダとその教えは尊いのだ。</p>
<p>　こうした輪廻に基づく生まれ変わりという考え方は、まがりなりにも仏教国として千年以上の歴史を持つ日本では誰もが耳にしたことがある一般的な概念だろう。世界最古の長編小説とも言われる『源氏物語』や妻夫木聡主演で映画化された三島由紀夫の『豊穣の海』など、生まれ変わりをテーマにした物語は今も昔も日本人にとってごく身近なものと言える。また現実生活においても葬儀や法事の場で「浄土に行けますように（つまり、この世界から浄土に生まれ変わりますように）」と祈ることは、なんら違和感を感じない行為であったであろう。</p>
<p><span id="more-7"></span><br />
　しかし、ここ数年で物語としてはともかく現実世界において「生まれ変わり」を信じる人の数はかなり少なくなっているようだ。2008年に読売新聞が行った調査では、何らかの信仰を持つと答えた割合が26％に留まったのに対し、72％が信仰を持たないと答えたという。同調査での死後に関する質問には最も多い30％が「生まれ変わる」と答え、24％が「別の世界に行く」、18％が「消滅する」と答えたそうだ。この数が多いのか少ないのかはともかく、「生まれ変わる」ということが自分自身たちの身に起こることとしてごく当たり前に受け止められていた時代は終わったということだろう。</p>
<p>　だとすれば、ブッダとその教えは「輪廻」という世界観を共有しない現代の日本人にとって、いったいどんな意味があるだろうか。仏教の目指すいわゆる「涅槃」とは輪廻から抜け出し完全に消滅することであり、先ほどの調査によればすでに18％の人たちはこの苦しみを共有してはいないのだから。輪廻という世界観を持たない人たちにが持つ苦しみの形は、輪廻という世界観を持つ人間のそれとは根本的に異なるのではないだろうか。この18％の人たちに輪廻を説きそこからの解放を掲げても、それはマッチポンプとしか言いようがない。</p>
<p>密教学者の津田新一はブッダの教えは輪廻という世界観があったからこそ生まれた考え方だとして「四諦でも十二因縁でもいい。或いは、苦楽中道でもいい、お釈迦さんの根本的な教説だとか、悟りの内容だとかされている説はすべて輪廻という、世界の絶対的な現相を前提としてはじめてでてくる」（『反密教学』春秋社、2008年、79頁。）と説いている。輪廻という世界観が私たちに対する拘束力を失ったとき、仏教はなにを説けば良いのだろうか。</p>

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		<title>テーラワーダ／大乗仏教の交流と、戒律の溝</title>
		<link>http://buddhistlife.net/article/4</link>
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		<pubDate>Mon, 11 May 2009 17:23:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>松下 弓月</dc:creator>
				<category><![CDATA[仏教生活]]></category>
		<category><![CDATA[ウェーサーカ]]></category>
		<category><![CDATA[スマナサーラ長老]]></category>
		<category><![CDATA[テーラワーダ]]></category>
		<category><![CDATA[度牒]]></category>
		<category><![CDATA[戒律]]></category>
		<category><![CDATA[戒律復興]]></category>
		<category><![CDATA[道元]]></category>

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彼岸寺に日本テーラワーダ仏教教会のウェーサーカ祭について紹介記事を書いた。
今年ははじめてテーラワーダ仏教サンガのお坊さんと日本の大乗仏教僧侶による合同法要が行われるそうだ。ウェーサーカ自体まだ参加したことはないのだ [...]]]></description>
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<p>彼岸寺に日本テーラワーダ仏教教会の<a href="http://www.higan.net/blog/news/2009/05/524.html">ウェーサーカ祭について紹介記事</a>を書いた。</p>
<p>今年ははじめてテーラワーダ仏教サンガのお坊さんと日本の大乗仏教僧侶による合同法要が行われるそうだ。ウェーサーカ自体まだ参加したことはないのだが、これは画期的な試みではないだろうか。</p>
<p>ここ数年でスマナサーラ長老をはじめとするテーラワーダ仏教の僧侶の活躍は著しく、長老はいまや日本で活動する僧侶のなかでも最も尊敬される僧侶の1人であることは間違いない。非伝統教団的な動きはあまり歓迎されないのが日本仏教界の常だが、こうして合同法要が行われるということは大乗仏教の僧侶のなかにもかなり賛同者が増えてきたという証拠だろう。</p>
<p>曹洞宗の開祖・道元禅師が宋に渡る際お坊さんにとっての学位号である戒牒を偽造せざるを得なかったというエピソードに明らかなように、伝統的に戒律が軽視されてきた日本と海外仏教の溝は深く長い〈参照：松尾剛次『破戒と男色の日本仏教史』（平凡社新書）〉。当時、戒律の国際基準を満たしていたのは東大寺戒壇のみで、延暦寺で受戒した留学僧たちは東大寺で受戒したという度牒を偽造しなければ入宋できなかったのだそうだ（比叡山では菩薩戒のみの受戒で、戒律の国際基準・具足戒は授けていなかった）。</p>
<p><span id="more-4"></span><br />
スマナサーラ長老も戒律を軽視する日本の僧侶を痛烈に批判してきたし（長老の批判点はそれだけではないが）、これまでは具足戒を授かっていない日本の僧侶は、度牒を偽造しなかければ入宋できなかった留学僧と同じように、テーラワーダ仏教の場においては僧侶と見なされていなかったはずだ。</p>
<p>今回この合同法要において、こうした戒律（に代表される）違いがどのように扱われているのかとても興味深い。こうしたテーラワーダ／大乗の交流は、きっと日本仏教でも戒律の復興運動につながっていくに違いない。戒律を保ち、生涯を仏教に捧げたテーラワーダの僧侶を目の前にして、わたしたち日本の僧侶はどのような立場を取りうるのか。</p>
<p>今回のウェーサーカはこの点を考える大きなポイントになりそうだ。</p>

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