人の信仰を笑うな 『仏陀再誕』について

先日幸福の科学の映画『仏陀再誕』を観てきた。普段であれば上映館数も少なく幸福の科学信者だけのものとして一般人の話題になることもなくひっそりと公開されるのだろうが、どうも今回は様子が違う。地上波テレビでのCMを流したり宣伝用DVDを秋葉原で配るなど、宣伝にとても力を入れている。上映規模にしても、この夏最大の話題作の一つだったエヴァ破を大きく上回る上映規模だったようで、この映画にかける教団の本気度が感じられる。さすが、衆院選の供託金に数十億を費やそうとも何でもないという宗教界のトヨタ、だろうか。

さらにこのところ幸福の科学自体に注目が集まる状況にもあって、でもずいぶんこの映画に興味を持っている人も多い。注目を浴びることになった最大の理由は、幸福実現党を設立し多くの候補者を送り込みながら迷走を重ねたあげく一人の当選者も出せなかった夏の総選挙だろう。全国すべての選挙区に候補者を立て大川隆法自らも出馬し政見放送で大演説をするなど、絶大なインパクトを残しながら当選者ゼロという驚きの結果を残している。

映画自体としても、ブッダの再誕という仏教の根本をまったく理解していないかのようなストーリーが各方面でそれなりに議論を巻き起こしている。幸福の科学の信者でなくてもネタとしてもわざわざ見に行った人がいるようで、少し検索すればこの映画にツッコミを入れるブログがいくらでも見つかるだろう。

話題のストーリーは、女子高生小夜子が知り合いの自殺をきっかけに霊的な世界に目覚め、ブッダの生まれ変わりである空野太陽という宗教教団TSI(=幸福の科学)の指導者の導きのもと、自分がブッダの生まれ変わりであると騙り救いと引き換えに自らへの絶対的な服従を要求する荒井東作を打ち破るというもの。映画で描かれる幸福の科学の世界観や信仰について考えながらであれば、信者でなくとも最後まで楽しんで観られるだろう。権力欲にまみれたニセブッダの名前が「荒井東作」だったり、最終的に空野と対決する悪魔がなぜか総髪で青い衣を着た僧侶として描かれるなど(モデルは真言宗中興の祖・覚鑁がモデルという説もある)、幸福の科学が何を敵として捉えているかも垣間見えた点も興味深かった。

仏教徒としては、ブッダに関する描写に受け入れがたい点が多かった。例えば、空野として生まれ変わったブッダが「諸々の比丘、比丘尼たちよ」と人々に呼びかけるシーン。弟子たちと将来仏国土を建設するという約束を果ために復活したのだと語りかけるわけだが、仏教徒にとって一番大切な存在がこのような形でまったく異なる文脈の中に取り込まれ、自説を補強する素材として利用されることは実に堪え難い。正直言って、このシーンには強い嫌悪感を感じた。空野が荒井を批判する「自分の権力欲を満足せんがために、小さな知でブッダの教えをねじ曲げるな」というセリフは、大川隆法が自分自身に向けて発するべき言葉だろう。

しかし、こうした映画の教義的な是非を巡る議論を離れたところで、大いに共感する点もある。それは大川隆法が語る荒唐無稽な世界観を多くの人々が信じた原因だろう、人から気持ちを理解されない疎外感と自分ではどうしようもないほど大きな苦しみだ。映画の主人公・小夜子の境遇に、多くの幸福の科学信者が社会に対して苦しんでいる自分を救ってくれなかった社会に対する恨み言に満ちた世界観を見てとることができる。

孤立して苦しむ人々

『仏陀再誕』主人公・小夜子は(おそらく)仏教系高校に通う女子高生。父親が医者で家庭も裕福だし、ジャーナリスト志望で熱心に活動する新聞部では評価も高く、友達にも羨まれるカッコイイ大学生の彼氏もいる。なんの不満もない充実した人生を送っているようだが、物語が進むにつれて実はそうでないことがわかってくる。

同級生たちは彼氏がいることを実は嫉んでいるし、新聞部の仲間も一緒に行く約束をしたのに彼氏とのデートを優先して小夜子にたった一人で荒井東作の怪しい宗教団体に取材に行かせたりする。表面的に友達関係づきあいをしているだけなのだ。また家族も小夜子が思い切って打ち明けたことを、バカバカしいと頭ごなしに否定して真剣に聴こうとはしない。やっとのことで射止めた憧れの彼氏も、彼女に隠し事(宗教活動)をしていて本心を打ち明けてはくれない。

小夜子は、周囲の人間だれともつながりあうことができないのだ。このディスコミュニケーションに苦しむ小夜子というキャラクターは、幸福の科学の信者にとってとても共感しやすいものだろう。どちらも周囲の人々との関係性が断ち切られていることに苦しんでいるのだ。

差し伸べられることのない手

しかも、そのような苦しみにある小夜子を社会は蔑みあざ笑いのけ者にしてきた。劇中で悪役として描かれるキャラクターに、弱い立場にある自分たちがいかに不当に扱われてきたと思っているかが明らかだ。

一人は小夜子があこがれだったという新聞記者だ。彼は幸福の科学の霊的な世界観を非科学的だと否定するインテリとして描かれており、小夜子が見いだしつつある霊的な世界をとるにたらないつまらないものとして否定する。そんなものは弱いものが自分の弱さを覆い隠すために作り出した戯言にすぎないと。

もう一人は苦しみからの開放と引き換えに自分への絶対服従を強要する荒井東作だ。たとえ霊的な世界観を認めていても、それが救いにつながるとは限らない。注意して「正しい」指導者を選ばなければ、教祖の欲求を満足させるための材料として使われてしまう危険性があるのだ。

正しいかどうかは別として、小夜子の置かれているこうした境遇が幸福の科学信仰を選んだ人にとって、共感のできる世界観なのだろう。苦しさを訴えても社会的にも宗教的にも手をさしのべてくれる存在はどこにもいないと、彼らは絶望しているのだ。

「正しい教義」が与える痛み

幸福の科学を荒唐無稽な物語として批判する人は多いが、教義の論理的な矛盾を指摘し非難することでは彼らの持っている苦しみをさらに深めることにしかならない。彼らはすでに充分否定され無視されてきているのだ。幸福の科学の教義がどれほど奇怪で根拠に欠けるものか証明しても彼らには届かない。人間は痛みを感じればそれを誤魔化すことを考える生き物だ。否定されれればされるほど、悪魔の陰謀など新たに理屈をねつ造して教義の論理に回収し、現実から目をそらすだけだろう(仏陀再誕が教義的に不可能と気付き、弥勒仏が替わりの存在として浮上しているのだとか)。

たしかに幸福の科学の教義において語られることは信じがたいことばかりだ。教義的な側面を追求したくなる気持ちもわかる。イエスもブッダもあらゆる偉人はすべて九次元宇宙の最高霊であるエル・カンターレの化身だというのだから、宗教としての節度も欠くし物語としても陳腐だ。傍から見れば誇大妄想としか言い様がない。しかし、なぜ彼らはこのような物語に縋らなければならなかったのか。それこそが最も重要な点だ。

それは彼らが社会的には解消しえない大きな苦しみを抱えながらも、誰にも救ってもらうことのできなかったからだろう。結局、そんな状況にあっても手を差し伸べてくれたのは、幸福の科学と大川隆法しかいなかったのだ。彼らの抱える苦しみとその原因を顧みることもせずに、教義的な誤りを批判したりカルトといってあざ笑うことのどちらも彼らの苦しみを無視し、踏みにじることに過ぎない。

苦しみに共感を

教義が正しければ救われるのか? すでに正しい教義があるなら、なぜいまだに彼らは救われないのか。正しい論理だけで人は救われない。誰からも手を差し伸べられることがない人生を送ってきた人に、苦しむ人を救うためにあらゆる言葉を尽くし何かを与えようとする人がいれば、信じようとするのは自然なことではないだろうか。

『仏陀再誕』の本質的な意味をとらえようとするならば、ブッダどうこうのレトリックではなく、そこで発されているメッセージを見極めなければならない。大川隆法が発するのは、社会から嘲笑われ蔑ろにされてきた人に向かって「それでもあなたは尊い存在なのだ。私はあなたを幸福に導くために、生涯を賭していく」というものだ。

このメッセージに、正しい教義をぶつけたところでなんの意味があるだろうか。正しさに心を切り刻まれれば、心をさらに固く閉じるだけだ。彼らも私たちと少しも変わらない苦しみを抱えて、精いっぱい生きているのだ。彼らになにか伝えようとするならば、まず彼らの出発点である苦しみに共感しなければ始まらない。

だから私は言いたい。信じるものは違っても、なにかに苦しんでいることは同じだ。苦しみを抱えるものとして、あなたの苦しみを教えて欲しいのだと。

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  • 終わったので余ったオニギリもぐもぐ。今日は衝撃的だったな…。
  • 今日は川沿いへ。
  • ではおにぎりを配りに。

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