密教における、社会的活動のための「実践」とは何か

先日「仏教にとって社会的活動とは何か」という記事を書きました。内容を簡単にまとめておくと、宗教にとって社会的な活動をすることは必然ではなく、社会的実践を行うかどうかやその方法は教義によって選択されるのであって、社会が宗教に求めるものとは必ずしも一致しない、ということでした。

それではいったい具体的にはどんな宗教のどんな立場がありうるのかについて、もう少し具体的に、わたしもその法灯を受け継ぐ一人であるところの真言密教の立場から考えてみようと思います。

「祈り」こそ密教の社会的活動である

「宗教の社会的活動」について、最近密教の立場から発言された興味深い意見に2つ触れました。ひとつは『拝、ボーズ!!』の天野こうゆう師のご意見です。

仏教というくくりで、空海さまの教えを説こうとすると既成概念のブッキョウに負けちゃってヤヤコシクなると私は思う。ならば「密教」を表に立てたいのだけ れど、こちらもイマイチ勘違いされやすい。秘密のなの?怪しいの?なんて言う者も出てくる。でも、仏教ひと括りはヨロシクナイ。

宗派を越えた若い僧侶が集うって何かやろうよ!的な発想は昔からあるのです。越えたからどうなるのか?なんて冷めたこと言おうものなら「アナタに情熱はないのか!」などと学生運動の演説みたいなのを聞かされたりします。同じ宗派でも若いのが集って何かしでかそうとしている時に口を挟むと「信心はないのか!」とどやされます。どちらもかなり面倒なのです。

で、結論は何がしたいのかと問うと表現はどうであれ「社会貢献」というオチになります。社会、世の中の為に我々に出来ることは何か!がテーマで徒党を組むのです。平和、環境、福祉、教育…とにかくお役に立ちたいと唾を飛ばします。

私はこういうのが苦手だから1人です。ただこれも器の問題…顕教とやるからヤヤコシイのです。密教的見地からやればいい。ジョジョとモトモトって話題でも 触れましたが、もっと大きな規模でしっかり祈っているのだから、めざすじゃなくて、もう包み込んじゃっている。わざわざ俗的にアピールせんでもよろしかろうって感覚。社会の一員という間隔も外して、拝む者としての責務。これを自覚して陰ながらやればよい。
法話な日記 ■2010/01/30 (土) ボクも坊さん。

もうひとつは、先日Twitterで中継もした「お寺と公益性」シンポジウムでの鈴木晋怜師(智山伝法院教授・全青協専門委員)のご意見です。シンポジウムのパネルディスカッションで議題の一つとして上げられていた「寺院の公益性をどう定義するか」に答えてのものです。当日のTwitter中継から引用してみます。

鈴木: 全青協で研究員。智山派でも研究員で教団がいかに現代社会に関わるか研究している。寺院の住職としての立場から話したい。保守的な面を強調する。 #otera posted at 15:41:02
鈴木: 寺院の公益性を議論する際には、それがないということが前提。開かれていなければ公益性を認められないのではという危惧・強迫観念がある。寺院住職として は「社会に開かれた活動をすること」がイコール公益性ではない。お寺なんだからお寺としての公益性に拘るべき。 #otera posted at 15:44:24
鈴木: 一般法人とは違う。宗教的なもの(基本は毎日祈っているというこち)にもとずくべき。祈りは個人に収まるものではなく、檀家や地域や世界という自分を超えたところまでつながるものだから公益性を持っていると言える。 #otera posted at 15:46:32
鈴木: なにか大きなもの(サムシンググレート)とのつながりを通して個人を超えられる。宗教的な実践としての祈りは個人と公共という両方のレベルで有効な行為 だ。まずは自己の祈りの真摯さが問われるべき。伽藍が締め切られていてもひたむきな祈りがあれば公益性は充分ある。 #otera posted at 15:49:20

天野師は密教の立場から、鈴木師はあくまでも一般的な寺院という立場からの発言で、多少立場に違いはあるもののお二方とも真言宗の僧侶なので、基本的に同じ真言密教の教義に基づいて発言されていると考えて良いでしょう。お二人に共通するのは、密教の立場からは個人の利益を超えた祈りを捧げることこそが社会的な活動であるということです。つまり、社会的な活動をするとしても、たとえばホームレスなどに炊き出しをしたりせずとも、日々寺院のなかですべての人々が幸福になるようにとか祈りを捧げれば良いのだということですね。

国を守るための仏教として日本と中国で広まった密教にとって、この祈願による社会貢献という視点はとても大切です。たとえば中国に密教が広まる上でとても大切な役割を果たした不空三蔵が三代皇帝に寵愛を受けるようになったのも、国家的危機に発展した安史の乱を密教修法によって平定したことがきっかけです(参照:加藤大道[伝法院住職]「中国密教における不空三蔵の意義」)。また、真言宗の開祖・弘法大師空海は国の安定と発展を祈願する後七日御修法[ごしちにちみしゅほう]を真言宗の修法の中でも最大のものと位置づけています。(空海ははやくから社会的な事業に取り組んでおり、灌漑事業や教育機関の創設といった社会的な活動もしていますが)。

経典上の根拠はどこにあるか

それでは密教ではなぜ「祈る」ことが「社会的な貢献」になるのでしょうか。真言宗の中心的な経典の一つ『金剛頂経』に一つの答えが書かれています。津田真一『和訳 金剛頂経』のいささか長く難しい解説文ですが、非常にカッコいいので引用してみます。

歴史上のブッダ、釈迦牟尼如来となる釈迦族の王子シッダールタ(悉達太子[しっだたいし])の密教的表現である一切義成就菩薩[いっさいぎじょうじゅぼさつ](サルヴァールタシッディ)は、なすべき難行をなし了え、「菩提道場に坐して」、「無動三昧」に入り、いまや成道直前の状態にある。一個の人間である一切義成就菩薩=悉達太子のこの状態に対応してその本所・色究竟天[しきくぎょうてん]より(しかも毘盧遮那[びるしゃな]を取り囲んで)降下してきた<一切の如来たち>は、一切義成就菩薩に対してその姿を示現し、いかにその様に難行を行じたとて<一切如来の真実>を知っていなければ成道しえない(逆に、それを知るなら、その様な難行を経ずとも、即身に成仏し得る)、と言って菩薩を驚覚する。驚覚されて菩薩は我にかえり、「では、どのようにすれば、どのような真実に通達し得るのですか」、と、その方法と真理の命題そのものを問う。それに対して<一切の如来たち>は、「通達せよ、<自己の心を各各に観察する三昧>によって、(すなわち)本性成就の(発菩提心)真言を好きな回数だけ誦することによって」と教えるのである。

……

『大日経』は、菩提とは何か、と問い、それに対して自ら「菩提とは如実に自心を知ることである」と答える。では「如実に自心を知る」とは? 『大日経』は、華厳の修道論を正統的に受けつぎ、それを「百千万億無量劫に福徳と智慧の無量の資糧を積集すること」である、とする。「福徳と智慧の資糧」とは、まさに上に述べた利他の直接的プラクシスのことに他ならない。『金剛頂経』は他のもの(シンボル)を以ってしてはそれに替え得ない筈のそのプラクシス(菩薩行)の無量劫に亘る継続を、<オーム、われは(自)心の(源底)に通達せん>という真言(非直接的なシンボルとしての…)をしかも、好きな回数だけ誦する、というシンボル操作で代替しようというのである。しかもさらに驚くべきことに『金剛頂経』の作者(それを人間とみる<閉鎖系>の立場からいうなら)は、自らそれが可能であるか否かを問題にし、且つ、真言というシンボルそれ自体の本性からしてその権能がある(prakrtisddha 本性成就)のだという根拠の意識からして、その代替は可能なのだ、と言ったのである。
津田真一編・訳『和訳 金剛頂経』東京美術、1995年、224〜7頁

一言で述べれば、密教の理論においては「象徴的な操作を行うことで実際の行動を代替できる」と述べられています。つまり、密教教義上では世界平和や社会の安定を祈願する修法を行うことと、それを実現するために実際になんらかの行動を起こすことはイコールなのです。密教のこのような立場が社会的に受け入れられるものなのか、また信仰上実践可能なものなのか、など別の問題はあるものの、先にあげた天野こうゆう師、鈴木晋怜師の立場は理論的にも裏付けられていると言えるのではないでしょうか。

信仰に基づいて行動をするときには、少なくともこうした教義上の裏付けが必要です。社会的活動をすることはとても立派なことだと思いますが、教義的な裏付けと信仰上の意義を確認しないままでは方向性がブレたりや活動そのものが自己目的化して行ってしまうことも考えられます。「本来のお寺は○○だったから、それを今に取り戻すのだ」というような曖昧な理由付けではなく、きっちりと教義的な検証を行うことも必要になっていくのではないでしょうか。

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